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未来テクノロジー

テクノロジーが拓く、豊かな未来。挑戦し続ける人と企業をクローズアップ

自社ブランドのタオルで奇跡を起こした 撚糸工場が双葉町と出会い、再生を目指す

2021年03月29日

浅野 雅己さん

浅野撚糸株式会社 代表取締役社長

1960年生まれ、岐阜県出身、子どもの頃からの夢だった体育教師を目指し、福島大学教育学部へ入学。小学校で3年間と中学校で1年間体育教師を勤めた後、1987年浅野撚糸株式会社に入社。35歳で2代目代表取締役社長に就任。撚糸の開発を続け、やわらかくて軽量、吸水性抜群の“魔法の撚糸”の開発に成功。自社ブランドのタオル「エアーかおる」を大ヒット商品に育て上げる。2013年、第5回ものづくり日本大賞 経済産業大臣賞受賞。2014年、文部科学大臣表彰 科学技術賞受賞など。テレビ東京「カンブリア宮殿」や「ガイアの夜明け」など、テレビ出演も多数。

50年の歴史を持つ岐阜の撚糸(ねんし)工場が、一時は廃業寸前にまで陥った。だが、自社開発の糸と、それを使ったオリジナルタオルの発売で奇跡的なV字回復を果たす。2020年8月現在、その国産タオルは販売累計1,000万枚を達成。斜陽産業の典型といわれる繊維業界において、地方都市の中小企業が果たした大復活劇だ。2023年には福島県双葉町に工場を新設する。新工場建設に向けたその思いを浅野撚糸代表の浅野雅己さんにうかがった。

復活を期して新しい撚糸
「スーパーゼロ」を開発

岐阜県濃尾平野、長良川が近くを流れる田園地帯にモダンにペイントされた4棟の工場が建っている。木曽川、長良川、揖斐(いび)川の木曽三川(きそさんせん)を擁するこの地域では、豊富な地下水を生かして昔から紡績業が盛んに行われてきた。「撚糸」とはその紡績の工程の1つで、綿から取った2本の糸を1本に撚(よ)り合わせることをいう。

1960年頃から紡績会社が撚糸を下請けに出すようになり、近隣の西濃地域には撚糸業者が急増。一時は県内に800軒を越えるほどになる。1967年、浅野撚糸はその時代の流れの中で創業した。

のどかな田園風景が広がる場所に浅野撚糸の工場が並ぶ

浅野さんが入社したのは業績が堅調だった1987年。先代から社長を引き継いだのは入社8年目、35歳のときだった。その数年後にストレッチパンツが流行し、綿糸とゴムを合わせて撚る伸縮性のある糸の需要が急増、過去最高の売上高を記録した。しかし、すぐに安価な外国製品が市場を席巻し、たちまち業績は悪化の一途。国内繊維業界全体が苦境にあえぐ中、ついには会長だった父が廃業を口にした。

だが、浅野さんは諦めなかった。2003年に苦渋のリストラを断行すると、新しい素材の開発に取り組んだ。その苦しい状況の中、営業先の大阪でかつて取引があった繊維メーカーのクラレを訪ねたことから水溶性の糸を紹介される。この糸と綿の糸で撚糸を作り、それをお湯に浸すと水溶性の糸が溶ける。綿糸がパーマをかけたような状態になり、細かな繊維の1本1本に隙間が生じることで、一般的な綿糸の約1.6倍に膨らむ糸ができた。“空気を撚った糸”の誕生だった。

この製法の特許を取得し「スーパーゼロ」と名付けた。マイナスの状況にあった自社と日本の撚糸業界、そして東日本大震災と原発事故に揺れる当時の日本の状況を重ね合わせ、「陽はまた昇る。ゼロを超えてプラスへ」と起死回生の思いを込めた。

「スーパーゼロ」を手にすると、空気を持っているようにふわふわと軽く、綿菓子のようにやわらかい

自社ブランドのタオルを売り出し
空前の大ヒット商品に

この糸を使って伸縮性の高いタオルを作ろうと、おぼろタオル(津市)にタオルの試作を依頼した。ところが、できあがってきたタオルは予定していた下地部分(横糸)ではなく、パイル部分(経糸)にこの糸を使ったものだった。しかしそれは、それまでにない、ふっくらとしたタオルだった。

品質に手応えを得て、浅野さんは自信を持って営業に回った。しかし、思うようにはいかない。「高すぎる」とあしらわれ、扱ってくれる卸も小売店もいなかった。そんなある日、営業に来た東京で、同行していた妻の真美さんと寿司屋に入った。もう、だめかな。そう感じていた浅野さんに、真美さんが言った。「今度は社員や協力工場の人とこのお店に来ようよ」

この言葉を聞き、「自社ブランドでこのタオルを売ろう」と浅野さんは決意した。ブランド名は「エアーかおる(air kaol)」。空気のair、クラレのk、浅野のa、おぼろタオルのo、そして生きる「live」のlだ。3社の技術の結晶であることをその名に乗せた。

洗濯をするたびに、ふんわりとやわらかくなる「エアーかおる」は、贈りものや引き出物としても人気。月に10万枚を出荷する大ヒット商品になった

一般的なタオルの2倍の軽量感、1.6倍の吸水力、毛羽落ちが少なく乾くのも早い。「よく水を吸うから幅は半分でいい。その方が洗濯しやすくて干しやすい」と意見をくれたのも真美さん。これが同商品の人気を決定づけた。発売から13年でシリーズ累計販売数1,000万枚を超える大ヒット。一時は廃業寸前までいった町工場が一転、右肩上がりの成長を遂げた。

2020年4月には設立50周年事業として本社・工場・直営ファクトリーショップ・創業家本宅・日本庭園を含めた一連を「エアーかおる本丸」としてオープン。コロナ禍にもかかわらず半年間で15万人が訪れる地元の新名所となった。

2020年4月にオープンした「エアーかおる本丸」には直営店やカフェスペースなどがあり、ゆっくりと過ごせる。ロゴマークは真美さんの横顔がモチーフ

福島へのうしろめたさをばねに
双葉町に新工場の建設を決意

同社は現在、福島県双葉町にスーパーゼロを生産する新工場を建設予定。それはどのような経緯によるものなのだろうか。

「私は福島大学を卒業し、福島には友人や知人が多くいました。災害当時、駆け付けることができず、義援金を送ることくらいしかできなくて。たまにテレビで復興の様子を見ると目をそらしたくなる。何もできなかったという、どこか情けない気持ちをずっと抱えていました」

あるとき、「繊維の将来を考える会」のメンバーに選ばれ、会議の席で経済産業省から「福島の復興を手伝ってくれませんか」と頼まれた。「それって『工場を造ってくれ』ってことでしょって。えらいことだなと思いつつも、良心の呵責があったんでしょうね。待ってました、みたいなところがあったのも正直な気持ちです」

「何かお役に立ちたい。ただそれだけで福島に行きました」

2018年7月。始めて双葉町を訪れると、津波と原発事故によって何もかも失われた風景が浅野さんの心をとらえた。

「ここから何かを起こさないといけない、そう思いました。世界に発信するならここだと。それともう一つ、一番条件が悪い。でもそれってすごいパワーがあって、反対側への加速もすごい。左に振った振り子が右に振るのと同じで、とんでもないエネルギーを持ってるぞと」

浅野さんが10代だった頃、長良川水害で工場を含む地域一帯が水に浸かり壊滅的な被害を受けた。浅野さんの父親は住民1,200人を束ね、水害訴訟団の団長として国を相手に交渉した。目的はお金ではない、堤防を丈夫にすることだった。同社はそこから復活してきた。福島との比較にはなりませんよと断りながら、浅野さんはそう話した。

「もう60歳なので無責任なことはできないけれど、工場進出のことを家族に相談したら、みんな賛成だと言う。帰り道には、双葉に工場を建てることを決めていました。理屈じゃない、運命だと体が震えました」

それから、惹きつけられるように双葉町を何度も訪れる浅野さん。避難指示が解除されておらず、そこは無人の町だった。震災前の日常生活が彷彿され、住民が帰ってくることを町が待っているように思われた。なぜ行くたびに涙が出そうになるのか、役に立とうと思って双葉を訪れたのに抱きしめられたような気持ちになるのか。

工場進出までに復興の一助になればと開発したマフラータオル「ダキシメテフタバ」に、浅野さんが感じた思い、温かみや愛おしさが込められている。

右マフラー03+.jpg (キャプション)双葉町と共同開発したコラボ商品「ダキシメテフタバ」。双葉町の桜、海、双葉高校のユニフォームカラーのグリーンの3色を用意

新工場はJR双葉駅から約2キロの中野地区復興産業拠点内に建設される。新工場に導入する撚糸機も同社の特徴の1つで、すでに生産中止となった1980年式の日本製撚糸機を世界中から集め、オーバーホールして動かす。

「最新式の海外製撚糸機を使ったけれど誤差が大きく、1週間ほどで壊れてしまいました。うちはいろいろな素材を組み合わせるし、イレギュラーな撚りもするから、この古い年式でないとだめなんですよね」と、浅野さん。世界一の技術力だと胸を張る浅野撚糸の新工場は、2023年春に操業予定だ。

震災被害から復興を果たす双葉町を
世界へ向かって発信したい

双葉町に完成する新工場も、岐阜の本社工場と同じくショップを併設するという。

「2024年の来場者数の目標は50万人。だが今の双葉のまちづくりでは難しい。自分たちから仕掛けていかないと」。修学旅行や研修旅行での社会見学など、復興ツーリズムを絡めた運営を見込む。目指すは「自分良し、相手良し、世間良し」の「三方良し」。それを福島で実現したいと考えている。

「同情で福島に行っても長続きしない。儲けるつもりでいく」と浅野さんは意気込む。タオルの売り上げの1%で木を買い、工場の敷地に植える計画がある。桜やカエデをはじめ、四季を楽しめる木を植え、花見や紅葉狩りなどをする。また、工場の中央に設ける屋外スペースでイベントを開催するなど、復興のシンボルとなるような拠点を作りたい」と夢を語る。

工場と店舗を複合した拠点「アサノフタバ SUPER ZERO MILL(仮称)」完成予想図。魔法の糸「スーパーゼロ」のロゴマークをあしらったユニークな建物

工場の従業員は地元からも採用する。「地元の高校生でもいいし、移住者でも構いません。福島の復興を手伝いたいって方たちと一緒に自慢できる町にしたいと思っています。双葉町長には住みたいまちランキングに入らないといけないね、と話しています」と笑う。

「中小企業が地域と一緒にまちを元気にしている姿を世界に伝えたいですね。福島は昔、絹の産地と知られていました。斜陽産業なんていわれる撚糸屋としては、なおさらがんばらないと。日本は戦争で焼け野原になっても復活したDNAがある。双葉町からそれを発信できたらすごいことです」

敗戦から日本が復興したように、浅野撚糸もゼロの状態から復活を果たした。双葉町もまさに復興の途に就こうとしている。浅野撚糸と双葉町が共に紡ぐ、これから始まる物語に目が離せない。

本社の一角には国内外の特許証が飾られ、浅野撚糸の製品の高さを教えてくれる

浅野撚糸 株式会社

1967年に創業。本社所在地は岐阜県安八郡。紡績工程の一部である撚糸を手掛け、繊維産業の盛衰を経ながらも1999年には7億2,000万円の売上高を達成。しかし2000年を境に売上高は激減し、瞬く間に廃業の危機に立たされた。2003年には社員数を3分の1に削減するリストラを断行。2007年の売上高は2億3,600万円まで落ち込んだ。窮状の中、独自の技術で開発した糸を使ったタオルが大ヒット。海外への輸出も増えて売上高21億8,600万円(2020年10月期見込み)の見事なV字回復を果たした。2022年には福島県双葉郡双葉町に新工場が完成予定。